合理化とは真逆にある事柄

仕事がつまらないときにたいてい決まって思うことがある。
それは
「この仕事、何の意味あるの?」

ということだ。


今、ちょうど別件で旅行ツアーの企画に関わっていて
それは自分で手を挙げてしまったことでもあるので
最後まで(基本的には1人でのつもりで)やらないといけない。


当たり前のことだけど、やる範囲に際限や線引きがない。


旅行代理店も行くし、スポンサードしてくれる会社にも行くかもしれない。
訪問先のスタッフ、店、協力してくれる方とやり取りして、
たぶん帰ってきてからも、記事書いたりするんだろう。


全部やるつもりだけど、でも逆に言えば全部やらなくてもいいことでもあって。


そう、
別に誰かにたのまれていることではないのだから
やる必然性はない。


理由はいろいろあるけれど、まぁそれでも「やる」という判断をしたわけ。


翻って、仕事の方では、分業が進んでいる。

社内の担当分け、外注化、システム化。
いちいち悩まなくていいように、オートマティックに作れる仕組みが
作られ、受け継がれている。


おそらく、最初に仕組みを作った人はいいのだろうけど
それを使うだけの人は、そこに意味を見出しにくくなる。


仕事って、なんだかんだいって、
本当に欲しいのは手応えだ。
自分がどう作って、どうやって届けられるかが見える仕事が、
一番楽しい。たぶん。


ムダな仕事はないけれど、ムダだと「思ってしまう」仕事はある。


大量生産・大量消費の頃はそれでも効率化を追い求めて、
仕組み化することは、1つの成果だったのかもしれないけど
今のものをいかに売るか、の時代(低成長時代)には
それは通用しないように思う。


だから、売れる手応えも、作る手応えもないまま
3年で辞める若者に、共感したり。というか、自分がそうだった。


甘えと言われれば、それまでなんだけど、
効率と非効率のどこで折り合いをつけるのか、
(それは理想と現実、というふうに置き換えてもいいけど)


結局、働く人は多かれ少なかれ、そんな葛藤を抱えているものなんじゃ
なかろうか、と勝手に思ってみたりする。