宿屋めぐり

宿屋めぐり

宿屋めぐり


果たして主人公に同情できるのか

主の命令を受け、大権現へ刀を奉納することになった主人公、彦名。彼はひょんなことから別世界へ入り込むのだが、そこは権力者たちの嘘や欺瞞に満ちた薄汚れた世界。彼はそんな世界で宿屋を巡りながら、特別な能力を得て金持ちになったり、騒動を起こして逃げ回ったり。あげくの果てに主の命を自分なりに解釈して、憎らしい人物に拷問を加えたりもする。
そして、最後に待っているのは、主からの罰。


さて。
そもそもこの物語は社会の不条理さ・欺瞞を暴き出しているといえるのか。主人公の行動に同情の余地はあるのだろうか。


主人公の立場に完全に寄り添えば、そうと言えなくもない。彦名から見た人物たちの多くは人の心も持たないような極悪な人物ばかりだ。彦名の言い分を頭から信じれば、欺瞞に満ちた別世界で正義を成すのは、彦名その人に違いない。

だが、読者としてどうしても彼に共感できない。その理由は我々が「自己都合」で正義を語る彦名を同時に見ているからだ。


物語は客観性を一切排除した、一方的な「内省的な語り」によって語られている。しかもその語りはいかにも頼りなく、さっきまで考えていたことを次の瞬間には覆したり、思いつきで強引な解釈を試みたりする危なっかしい語りだ。

そこにはあるのは、「私」というものの揺らぎと、極端な不安定さである。



宿屋めぐり」で明かされたもの

では、自己都合で正義を語り、人に罰まで加える彦名は一体何を体現しているのか。


ラストの場面。
「主」の命令を懸命に自分の良いように必至に解釈しようとする彦名は、滑稽であると同時に恐怖でもある。彼は、正義のためと自らにいい聞かせながら、体裁や自分の都合を優先させる。「主」を「神」と置き換えるならば、彦名はまさに「信者」であり、不在の神の言葉をいいように解釈し、相手に向かう暴力の根拠とするそのやり口は、テロリストのそれと同一に見える。


町田康が描いたのは、最後には「正義」というもののたちの悪さではなかっただろうか。

ラストに至るまで主人公は常に自分の「考え」を揺るがせている。その揺らぎは誰しも当てはまる類いのものだ。だが、それが一旦「正義」や「使命」の文脈に回収されると、主人公の世界への暴力性は加速する。それはつまり、確固たる「私」というものを持たない誰もが、「正義」という極端さにはまってしまうことで、あらぬ方向へと暴走する危険を隠し持っているということでもある。


彦名の顛末は人ごとではない。

そこには人の真理が隠されている。