『悪人』吉田修一

『悪人』というタイトルが示唆するようにこの本のテーマは、人間誰しもが「悪人」に転げ落ちる可能性を秘めている、そして完全なる「悪人」などは存在しない、と言うことになるかもしれない。だけど僕はむしろ、この普遍的なテーマを補完する現代的なツールの方に目がいってしまう。

淡々とした語り口のミステリー形式をとりながらも、すぐに事件の犯人は読者に知らされる。後はその加害者と被害者、その周りをとりまく人たちの人生が丹念に描かれていくことになる。いってしまえばこれだけのことなのに、一つの事件に関わる人たちの人生がこれほどにも重いのかというくらい切実に胸に迫って来る。

この小説において描かれる「悪」という普遍性に、時代性を付与するのは「携帯」というツールである。
現代、最も人々の近くにあるこのツールは、人と人の距離を飛躍的に縮め、会うこともなかった人々を会わせる。事件は出会い系サイトで出会った二人がもとで起こるのだ。小説を読みながら思わされるのは、携帯電話、特にメールはお互いの本心を包み隠して行われる儀式のようなコミュニケーションだなぁということ。自分の経歴さえ詐称してコミュニケーションしようとする出会い系はもとより、普段のメールでさえも様々な意図を抱えながらも表層的な文章だけで相手と会話をする。被害者となった女性が見栄をはって気のある大学生にメールをしたり、加害者の男性に会いたくもないのにやり取りをしたり。
本来繋がることのなかったものが強引に繋がっていくから、相手の意図が読めない。
考えを知り得ない。
文面だけを素直に読み取っても、邪推しても、それは読んでいる主体の読み方でしかなく、相手の意図は最低限しか反映されない。携帯とはどうにも感情的情報が少なすぎるが故に、相手の感情を読み取ることがかなり難しい。
だからこそ、そこに悲劇の起こる可能性が広がる。

だが、携帯は加害者に運命的な出会いをももたらした。
その点で決して単純な携帯批判ではない。
とはいえ、やはり愛情を深めるのは出会ってからのこと。二人は、文字ではなく、肉体的に理解を深める。


善と悪の価値軸を揺るがす小説ならば、いくらでもあるだろう。
だがこの小説が現代的であるとするならば、それは携帯電話がもたらす空間の縮小においてである。
そしてその結果生じるコミュニケーションの異質化である。

誰かを「悪人」であると見ることは一方向的な見方に過ぎない。でも、それは文面的コミュニケーションが浸透してしまった現代においてはあまりに忘れ去られがちな真実なのかもしれない。

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