『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ著 村上春樹 訳

カポーティの名作を村上春樹の訳でよみがえらせた現代の名作である。

オードリーヘップバーン主演の映画があまりに有名で原作は実はあまり知られていない、ということもあるかもしれない。だけれども、あとがきで訳者がいうように、この小説の主人公ホリー・ゴライトリーをオードリーと重ねて読むことは、読者の想像力を狭めてしまうことになる。作者カポーティも当時、オードリーの配役には不満だったともいう。映画としては商業的成功を収めたものの、それはそれとして小説を独立したものとして純粋に楽しむ方が、読者にとって有益なようだ。

物語を彩るのはなんといっても破天荒な女性ホリーだ。

無垢なところとどうしようもなくすれたところとの両面が混在している。とらえようもない言動。そしてそれに振り回されながらも最後まで心惹かれていた語り手の僕。
彼女のつかみがたい思考を代弁するのが、「ティファニー」への憧憬である。

タクシーをつかまえてティファニーにいくことだったな。そうするととたんに気分がすっとしちゃうんだ。その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ。そこではそんなにひどいことはおこるまいって分かるの。(〜)ティファニーの店内にいるみたいな気持ちにさせてくれる場所が、この現実世界のどこかに見つかれば、家具もそろえ、猫に名前をつけてやることもできるのにな。ちょっと考えていたのよ。

複雑な境遇の幼少時代を経て、男を利用しながらたくましく生きるホリーの、憧れや夢やあどけなささえもが凝縮されたティファニーへの想い。きっとそれは、ホリーのような希有な女性に限らずとも世の女性には多かれ少なかれある憧れのイメージではないだろうか。そんなティファニーへの憧憬を臆面もなく口にするホリー。精神の安定をティファニーに求める女性に、「僕」は家族に抱くような恋心を抱いていた。
なんとも表現しがたい、関係性。そういう微妙なさじ加減のストーリーをカポーティは見事に描いている。そこになんの疑問もわかないくらいに。


読み終わって、ふっと思った。
ホリーにおけるティファニーとは、ホールデンにおけるライ麦畑のようなものなのだろうか、と。
どこかにある理想郷。
今の不遇の現実からどこか逃避出来る場所。帰れる場所。

二人にとって必要だった精神世界を、巧妙に描けるところに作家の力量を感じずにはいられない。
もしかしたら全然違うのかもしれないけれど。


まずは、読んで、感じてみてほしい作品です。
村上春樹も絶賛しているのだから。