『思考の補助線』 茂木健一郎


全く個人的な話から始めさせてもらうと、最近、企業内に属して「モノを言う人」と「モノ言わない人」との違いについてぼんやりと考えている。多少なりとも会社外に興味のある人物であれば、会社の置かれた状況、業界のさんさんたる状況に危機感を抱くはずであるし、それを感じていながら何もしないのはまさにリスクであるように思えてくるだろう。そんなとき、企業人の取る行動とはいかなる結果をもたらすのか。

何もしないことは保守的な会社においては美徳である。だが、何かをしなければならないと悟ってしまった人間にとって何もしないでいることは、どうにも生きづらいことだろう。先見性などというつもりは毛頭ないが、誰かがリスクをしょって火中の栗を拾いにいくことなしでは、物事は動き出さない。劇的には。その栗拾いがどの程度いるか(さらにはどの程度精度が高いか)が、よい企業と衰退する企業を分ける境目ではないだろうか。

とにもかくにも変化の早い時代である。


さてさて。
この人も怒っている。現代のドンキホーテとなってでも、「世界全体を引き受けることを志向する」と宣言する茂木健一郎だ。彼の活動の広範囲さには常に驚かされる。ノンジャンルで対談を行っている。どこにでも顔を出せる人物だ。そんな彼が「知のデフレ」現象の起きる日本に喝を入れる。まさにそんな著書。これまでの脳科学の著作とは一線を画しているが、ブログや彼の講演に慣れ親しんでいる読者には、受け入れやすく、むしろ引き込まれていくに違いないだろう。


この本の肝になる「内なる情熱」について引用しておきたい。

昨今の人々は分かりやすいものばかりを求めるようになった。難解な本を読んだり、真剣に粘り強く本質的なことを考えたりしなくなった。「インテリ」という言葉が死語になった。日本におけるそんな「知のデフレ」現象に私は怒りを覚え、不特定多数の人々が集う公の場ではともかく、親しい知人や仲間たちの間では「ふざけんじゃねえ」と噴火を繰り返してきたが、ここに来て、少し風景が変わって見えてきている。

そしてこう続ける。

大切なのは、「何が正しいか」ということではなく、「何がしたいか」という情熱のほうなのではないかと思うようになった。難しいことに取り組む「インテリ」になること自体が重要なのではない。問題は、それがどのような情熱によって支えられているかということである。
生きる情熱。前に進む意志。その質が問われている。

結局、全ての議論はここに収斂されていくと思う。
大切なのはパッション、その質である。

やりたいことがないのに、大きな仕事を成すことは出来ない。

心に刻んでおきたい言葉になった。

思考の補助線 (ちくま新書)

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