雑誌の未来2

先日に引き続き、自分の思考を整理するために書いてみたい。


前回は情報誌だった。雑誌の中でもネットの影響を受けやすいジャンルであった。
では、カルチャー誌、文芸誌はどうか。


こちらの部数減はネットの話以前に人々の嗜好性が多様化してきて、読書が趣味の全部ではないということが行き渡ったことが大きいだろうと思う。それは当然、前世紀から続いていた傾向だけれども。
ただそれを差し置いても、なんとなく全体に元気がないのかなぁという印象をどうしても持ってしまう。そりゃあ、爆発的に売れることはそうそう考えづらい。しかし、インテリ層やサブカル層がいなくなったわけでもないし、テレビは見ないけど情報はほとんど活字です、という人だって割にいるだろう。だけどその人たちも含め、ムーブメントになっていないように思える。


ところで、現代社会は「カーニヴァル」社会である。
話題のある話に「ネタ」として飛びつく。そして「ネタ」で飛びついただけだから、当然飽きるのも早い。このたびのハンドボールもそうだけど、日本人の流行物好きがますます加速し、「祭り」要素があるかないかが人を引きつける大きなファクターになってしまっている。
ベストセラーなんてのは全くこの原理によるように見える。


だが、その一方で、急速に盛り上がった途端にクモの子を散らすように去っていくのでは、当然のことながら継続性がない。それは祭り事業を展開している方もそうだけど、消費者(祭りに群がる人々)にとってもそうだ。
なんだか、残る物がない。


私事ではあるが、こうして20数年生きてきてやはり趣味というのは人生を通して全うするくらいに奥深さがなくてはならないし、その点で経年変化にも耐えられる継続性が、趣味対象の方にもないといけないのであろうと思ったりする。テレビでよく見て話題性があって祭りっぽくて楽しいから群がってみたものの、ブームが去ったら何の情熱も持てなくなってしまった。そういうことはよくあることではあるが、全てがその繰り返しだったら、人生とはなんとうら寂しいものか。


活字には、経年変化よる劣化が、時に味わいとして功を奏す場合がある。
つまり時間をかけた方が面白さが分かるということもある。


社会全体がカーニヴァル化している傾向があるというのならば、逆に手元に残るもの、なんだか長い時間考えていたいものを求める感覚が働いてもいいのではないだろうか。情報は消費されている。情報が消費されているなんて、なんてもったいない世の中なのだ、と思うけれど「消費」というコトバがぴったりなのだ。インタビューは今やタダで読める。R25を手のとるだけでいい。あるいはgoogleで検索でもしてみればいい。
だけど、それで全てを知った気になってはいけないんだろうし、読んだ方もうすうす物足りないことを自覚しているのではなかろうか。


深さ。それは何か。それは、そのことについてどうしても考えてしまうテーマである、というこかもしれない。
本を読んでいる最中は、普段の生活にも時々読んでいる本のストーリーを思い出してしまったりする。不思議なことだけど、それは勝手に起こる。脳の仕業だろうか。
そんな勝手に脳が反応して、日常生活に支障を来す、というと大げさだが、そのくらいなんとなく考えてしまう記事でないといけないんじゃないだろうか、なんて思う。


そうであれば、カルチャーといえど、普段の僕らの生活のどこかに、関係してくる必要があるんじゃないだろうか。
というよりも作品は社会や世相なしには成立し得ない物だから、それを掬いとって、誌面としてみせることは雑誌の一つの使命なんではないだろうか。
それは、強制的に社会問題ときり結べということではなく、もっと普段の生活を揺るがすような「影響力」を活字に宿すことを「意識的に」やっていってもいいんじゃないだろうか、ということだ。


すごく漠然としていて、概念的な話になってしまった。

このことで何かを否定したり変えようと提言しているわけではない。
そのことがむしろ歯がゆかったりするのかもしれない。もっと具体的な話に落とし込んでいければ自分の行動指針としてもはっきり見えてくる物があるだろう。だけど、それでもこうして漠然とつらつらと時間をかけて駄文に起こしてということで、自分がもやもやと抱えている感情を意識上に上らせる上では意味のあることかもしれない、などと詭弁をたれながら書いてしまっている。


ページをめくる楽しみ。
印刷仕立ての、あの紙同士がくっついた感じ。
それを慈しむようにめくっていくたびに、旅に出るような気分を味わうことが出来る。
この感覚は大げさではない。