雑誌の未来

ある時期、「BRUTUS」は僕の知的欲求の発露だった。
そこでは知らないクリエイターたちが、アートやデザインや流行の某かについて、時に熱く、時にクールに語っていた。対象の取り上げ方、切り口にセンスを感じずにはいられなかった。特集主義の雑誌なので何を扱っているかによって当然入れ込み度は違ったけれど、社会のもめ事から全く自由で我が道を生きる感覚、それがまたなんともいえない輝きを放っているように見えたのだった。


しかし、これは今思えば少々大げさな捉え方である。
それにしてもあのとき、僕をとらえたわくわく感はいったいどこから発生していたのだろう。


最近、わくわくしながら雑誌を手に取ることが、めっきり少なくなった。
昔はそれこそミスチルの出ている雑誌を買い求めては一目散に家に帰って、慈しむようにページを繰ったものだ。最近では、書店でぱらぱらと眺めて元の棚に戻す。その間、10秒程度か。作り手側には申し訳ないのだけど、どうしようもない。なんといっても雑誌が多すぎるのだ。全てを買い求め、通読していたら、それだけで一日が終わってしまうだろう。いくらなんでも、それはできない。
面白い雑誌とは何なのだろう。僕らは何を求めて雑誌を手に取るのだろう。


雑誌を割と熱心に読むようになって、人生の楽しみが増えた。これは率直な感想だ。テレビに食傷気味だった僕にとって、雑誌のより深い記事、マイナーな紹介は、明らかに人生を面白くさせている。これだけは断言できると思う。雑誌を読んでいない人よりも、人生を楽しく生きることが出来る。


では、楽しみ方が載っている雑誌であれば、それで万事OKか?


まず。
情報源としての雑誌という役割は、非常に限定的になっている。今更ながら。
「Tokyo Walker」は厳しいだろう。「Weekly ぴあ」もいつ廃刊になってもおかしくないんじゃないかと思う。紙の特典、を打ち出しても、それは継続性には結びつかないから。広告もそれほどとれない。
こういった雑誌を「情報フラット雑誌」と仮に呼ぶ。


逆に、最近では「oz magazine」「東京カレンダー」が気になる。
この二誌には、ネットでは得られない情報が掲載されている。それが、そのレストランを訪れた時の気持ちや雰囲気、つまりシズル感だ。これを読んでいけば、間違いないセレクトが出来る。「ぐるなび」で痛い目にあった男子は見るべし。
こちらは「フラット」に対して、「エモ情報雑誌」である。


ガイドブックもフラットからエモに移行すべき時にさしかかっている。特にムックタイプはその必要に迫られているだろう。「地球の歩き方」で情報は充分だ。そこを上回ろうと思っても、勝ち目はない。それは読者の思い込みを変えるところから始めないといけないからだ。要するにブランディング。一朝一夕ではいかない。コストもかかるだろう。

であるならば、書店で手に取ったその場で、読者に訴える誌面作り。それを見ると得られる気持ちよさを、誌面で表現する。それこそ「エモ雑誌」の真骨頂だ。


雑誌をめくるとき、そこに何を求めているかと言えば、それは間違いなく気持ちよさだと僕は思う。
少なくともヴィジュアル誌はそこを目指すべきだと思っている。写真とデザインが命になる。それともちろんタイトルの付け方。「CASA」も「Esquire」もこの点で素晴らしいのだけど、パンチにかけたりする。ぱらぱらめくるとそのまま最後までいってしまう。手を止める瞬間がない。それは読者の側の好奇心不足か。でも、もっと書店でガツンとやられるような特集に出会いたいと思っているのだ。そのままレジに直行せずにはいられないような。


まぁたしかに、おこがましい意見なんだけど。
それは棚においておいて…

明日は、活字系・カルチャー系の雑誌に着いても考えていきたい。