「カーニヴァル化する社会」

LIFEでおなじみの鈴木謙介氏の著作を読んでみた。amazonのレビューで分かってはいたのだけど、想像以上に議論があっちいったりで、着いていくのになかなか苦労した。もちろん書いた本人はそれも含めた構成だったのだろうけど。


まず前書きで「祭り」に群がる人々が出現してきたことを指摘。これはネットの炎上などを見ても分かるし、W杯の日本人の騒ぎなども引き合いに出されていた。だから本編も当然この「カーニヴァル化」について話が始まるんだろうと読み始めたら、次には「ニート」問題(やりたいことしかしたくないという若者の就業状況)を分析しはじめた。ニート議論としてはもちろん悪くないのだけど、突然の話題の急展開にびっくり。さらに次の章では「監視社会」について議論が飛ぶ。さらに3章では「ケータイ」でのコミュニケーション問題が主題となる。


ここまで来て、カーニヴァル化はどうなった!と叫びたくもなるのだけど、なんとか読み進めるうちになんとなくこれらの3章が一つのテーマによって統合されるだろうことが見えてくる。
それは「反省的ー自己」と「再帰的ー自己」という二分化ではないだろうか。

つまり、これまでは「反省的−自己」「我思う、故に我あり」という社会の中での役割を学習し、確信をもった内的メカニズムによって自己を規定してきたものが、現代では「再帰的−自己」化が進んだ。これは、「我は我なり」という断定のみが存在する。この顕著な例は「キャラ」化である。場面によって、節操なく自分を使い分ける。そしてこれは「脱−社会化」であると指摘される。
ここにおいて必要とされるのは自分を使い分けるための「データベース」であり、ようやくこれまでの就職やりたいこと問題や、監視社会問題、ケータイコミュニケーション問題が一つの視点によって結ばれるのだ。

それは、この「データベース」という概念でああり、データベースにアクセスして得られる感動やら一切合切が、目的化してしまうという現象なのだと思う。


なかなか難しい話でこうして書いていてもあんまりまとまりがなくて、はっきりとした物言いになれないのだけど(間違って理解している可能性あり)読んでいて、身につまされるというか、すごく共感出来るところは多々あった。


これは、共感出来る人、毛嫌いする人、両極端に分かれる本かもしれない。



「わたしたち消費」も読んでみたい。



カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)