「働く」ということ


遅ればせながらTBSラジオの「LIFE」という番組が熱い。
鈴木謙介という社会学者をメインパーソナリティとしたサブカル談義。メンツもすごく信用の置けるメンバーで聴いていてワクワクする。
とはいえ、実は生で聴いたことはない。紀伊国屋のイベントで始めて知り、書籍を読んではまったクチだ。


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その中でロストジェネレーション主体の「働く」をテーマにした回がいろいろ思うところがあった。
僕自身も79年生まれ。就職氷河期の影響をもろに受けた世代だ。
今思うと不思議なくらい、企業は新卒採用を控えていて、年々内定者数は下がっているという、そんな時代だった。
だからだろうか、就職に対する感覚もピリピリしたものがあったし、社会の趨勢に逆らって、自分だけは成功しないといけない、というような風潮も少なからずあったように思う。


その表れが、自己分析、というやつではなかったか。


どれだけココに時間と労力を費やすことが出来たかが、最終的に内定かどうかを左右するのだ、という言説。
自分の人生を徹底的に振り返って、たいしたことないな、って痛感させられて、それで挑んだ面接でも玉砕して、全否定のスパイラル。
これはもう避けられないロジックのような気がする。


でも、社会に出て、5年が経って、あんなに人生を賭することはなかったな、全く。って心から思える。

たしかに仕事は重要だ。
でも就職活動で自分の人生の価値を計りたくないし、企業のおっちゃんにそれを判断させるものでもない。
入って分かったのは、仕事している人間がどれほど人格者かってこと。人格や人間性は、たしかに仕事を左右するかもしれない。でもそれは、個々人の裁量の部分であって、仕事をするにあたって、そんなことはたいして重要じゃないし、面接に出てくるやつらもたいしたことはないんだっていうことがひしひしと分かる。



最初に入った企業の、能力開発部のおっさんは、エロサイト閲覧の常習犯で今は警備員に左遷だとか。
入る時に、こんなに高いハードルを持ち出しておいて、その実、中で働いている人に魅力を感じられないなんて、こんな理不尽なことはないだろう。


結局、あの時、僕らが自分の責任引き受けてしまった就職難は、時代のせいであったわけだし、人格を否定されたと凹んでいたこと自体がすごく空かしを食らった気分なのだ。


もちろん、全てを時代のせいにしたいわけじゃない。


でも、明らかにあの時点で、どうやって人生を生きていくのか、ということをしつこく考えさせられたし、今の自分の仕事や将来へのこだわり、やりたい仕事のためなら今の会社を辞めてでも着き進むべきだと言う粘着質なこだわりは、あの時に醸成された。間違いなく。


きっと、ポンとなんなく入れていたら、こんなに仕事に何かを求めることはなかったんじゃないかと空想したりする。人生に「たら」「れば」はないけど。
ただ一つ言えるのは、このことが僕に悪い作用をしているわけじゃないということ。


その過剰に考えさせられたんじゃないか、っていうところも含めて、自分の人生として受け止められる。ということ。時代に要請された側面があるにせよ、ないにせよ。


どこにいっても同世代の人は少ない。(気がする)


時代の流れをひしひし感じる。
でも、その中で感じたことは、結局血肉になってしまっている。もう、後戻りはできないのだ。