松岡正剛さん『本に溺れて浮いてみる』


紀伊国屋ホール

『千夜千冊』という千冊の本のレビューをまとめるという、恐ろしい全集を出している編集者の松岡正剛さんのお話を聴きに。


テーマは『本と我々の間にあるインターフェイス』ということについて。


例えば、松岡さんは時々自分の本棚の本の位置を確信的に作り変える、という。
それは分類やジャンルをこえて、自分の直感を頼りに、「この本の隣にはこの本だろう」という一種の整合性を持って行われる。その本棚の並びを変えるという行為は、自分の頭の中にポータルを持つということと同義であり、目の前にブックギャラリーを持ち、本の地図を持つことにつながる。


しかし、頻繁に本を並び替えるとは、いかなることなのか


つまりはそれは「読んでいることを多重化、多角化するということであり、」それこそつまり「本に浮き、溺れるということ」なのである。



話はさらに『千夜千冊』へと。


それはレビューではなく、「読書の記憶」である。
「記憶」とは、本と生の自分の隙間を埋める行為であって、個人的思い入れもつきまとう。
その丹念な作業の結晶が『千夜千冊』へとまとまっていくのだ。


さらには、バーチャル世界での「図書街」。

コンピューターの中に古今東西の書物を蔵書しようとする試みだ。これは壮大である。ユーザーはまさに本の中に「溺れ」ていくに違いない。
そしてそれはまさしく、何者にも変えがたい快楽へと変容するだろう。



読書、本を読むという行為に、極限まで真摯に取り組んでいる方なのだ、と痛感させられた。




ところでこの日の話にも出てきた「マッピング」ということの有用性について、僕自身も非常に感じている今日この頃なのだ。
現代社会の情報過多とスピードの速さは、様々なジャンルをより細分化し、深淵化させる原動力になっている。この中でよりスピードを持って、情報に当たる術というのは世界を上から一望するほかない。
業界を一枚の地図に落としこみそれを上から眺めることは、事態の把握にとても有益であると考えられるし、それを借り物ではなく、自らの手を動かして作ることで潜在化されていた自分の解釈が実際に形になり目にみることが出来る。大切なのは、正しいか間違っているか、ということではない。それはささいなことだ。大切なのは、そこにいかなるリアクション・マッピングを行うか、ではないか。そこにこそ、個性がにじむものにではないか、と信じたい。



ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝

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