情報の海の中というけれど・・・


ふと地下鉄大江戸線飯田橋駅エスカレーターを登りながら思ったんだけど。

エスカレーターってすごくありふれていて、特段すごいなぁ、ホントに便利になったなぁなんて実感は湧かないんだけど、でもエスカレーター以前・以後にまさに生きていた人は、その「変化」を実感として感じていたんじゃないだろうか。そして、その有難さや進歩に多少なりとも感動を覚えたんじゃなかろうか。


えっと、何がいいたいかというと、技術革新や進化というのはその過程の中に身を置かないと、感じることが出来ない、というしごく当たり前のことである。


鉄道が通った、水道から水が出た、電気が点いた、そんな近代的発見に限らずとも、人々を進化の渦に巻き込んだ「変化」は常に周りに起きていたんじゃないだろうか。


それに比べ、現代はほとんどのものが当然のものとしてそこに「ある」。携帯やネットといった情報機器に関しても、僕らの世代はちょうど変化の真っ只中にいたから実感できるけど、今の若い人って(←オヤジ発言)もう物心ついた時から当然のようにそばにある。


それと同じように、ネットによって情報の量がハンパじゃなくなってきた。日々、情報の波にさらされている、と言うようなことをいうけれど。
それをもっと意識的にみないと、その有難さ・有利さ・危うさが身体からすり抜けてしまうのではないだろうか。


やり取りしている情報が10年前に比べて増えたから情報化社会だ、という単純な図式ではなく、僕らの実感としてそれを受け取り、もっともっと変化を身体で体感しないと、日常化に溺れていってしまう危機感がある。