そりゃあ小説の方が面白い『ゴールデンスランバー』


当時の本屋大賞も受賞した伊坂幸太郎の代表作『ゴールデンスランバー』の映画化。仙台パレード中の総理大臣・暗殺犯に仕立て上げられた主人公の逃走劇。

これまでの伊坂作品の映画化の中でも、登場人物も多く、展開もスリリング。(ストーリーの要請があるとはいえ)


で、観終わった感想としては「やっぱいいストーリーだな〜」ってこと。結局、原作賛美になってしまうのだけど、小説が楽しめれば映画も楽しめると思います。ただ、伏線が次々に回収されていく小説のあの気持ちよさは、映画ではやっぱりはしょられ気味でダイジェストと配役とを合わせて楽しむ感じ。


改めてつくづく感じるのは、作家はとにかく「個人」の側に立ってエンターテイメントを構築する意思を持っている、ということ。村上春樹の「壁とたまご」じゃないけど、どんなに「システム」側を敵に回しても、書き手として「個人」を賛美する視点が常にそこにある。
その証拠に物語は主人公を陥れた組織を突き止めたり、暴いたりすることが放棄されている。「結局、相武紗季、何者だったんだ、おい!」とか。真犯人を見つけたり、組織を壊滅させる方向に向かわない。その方法をとった方がシンプルな解決、胸をすく物語になるとしても。なぜなら「なんだか怪しい組織」を壊滅することが主眼に置かれていないから(そりゃそうだよね…)。主題はあくまで「逃げる」ことだ。


「逃げる」ことは究極的に主観的な行為だと思う。それは誰にでもできることだし、その過程では分からないことは分からないまま。誰もが感情移入できる。完全無欠ではない主人公に感情移入できることで、普段目にしている他人事の「ニュース」を主観的に
再体験できるようになる。つまり「自分事」になる。


普段、何気なく素通りしている「冤罪」も「メディアスクラム」も「警察の横暴」も「ワイドショーのコメンテーター」も主観的な感情を喚起させられながら、味わうことが出来てしまう。フィクションなのに。それは「逃げる」ことが主人公「個人」への感情移入を誘うから。


主人公は「弱さ」(それは逃げると言う立場での社会的な弱さ)を抱えながら、ラストまでそれを抱え込んだまま(あるいは隠し通したまま)生きていかざるをえなくなる。
だけどそこには、「弱さ」を乗り越えることや「強さ」を手に入れること以上に、価値のある事実が存在していて。それが人のつながりだたったりする。システムに立ち向かうのではなく、「個人」として大切なものが何か、それを浮き彫りにしているのがこの小説なんじゃないだろうか。



それに。
結局、普通に生きている限り、誰が正義で誰が悪なのか。なんて、はっきり分かるはずも無いわけで…と、小沢vs検察、足利事件なんかを観ていると思わされていたので…それは相手を信用するかしないかだ。
というところに結局、集約される気がして。


そんなところにスポットを当ててくれるから、たとえ主人公がハッピーエンドとは言えない結末を迎えても、それでも救われた気持ちにさせられるのだろう。



※1年前に小説の方の感想を書いてました…発掘。
http://d.hatena.ne.jp/u112433/20090108#1231431679