『決壊』平野啓一郎

全体の感想として……作家生活10年目を向かえる平野啓一郎の渾身の長編が今作『決壊』である。現代社会の主要な問題、ネット社会、無差別テロ、鬱、介護、引き蘢り、中学生の殺人など様々な要素を内包し、発売のタイミングから「秋葉原無差別殺人」を予見したとも言えるような「現代」にぴったり寄り添った形のフィクションだ。
平野氏の作品は芥川賞日蝕」であまりの難しさに挫折したのを始め、短編を中心に(全てではないが)読んでおり、ネット世界の狂気など現代の病巣に対する意識が非常に強いと感じていたので興味深く読めた。今回の作品はまさに現代という時代を小説世界に再構築し、世間をにぎわせているニュースを他人の出来事ではなく、自分(読み手)の物語として引き受けさせるという小説の持つ本来の力が発揮された力作になっていると思える。文体も全体に読みやすいながらも、人々の感情の機微を非常に細かく描写し、それが行間ににじむ、いはくありげな気持ちの悪さを助長しており効果的でさえあった。


ストーリーを振り返って……物語はエリートで何事もうまくこなせる兄と、平凡でありながらも妻と子供に恵まれた弟の関わりを中心に進む。前編では兄弟と家族との関係が徐々にぎこちなさを見せ始め、弟が妻に隠れてネットに<ふぅのつぶやき>という日記を公開、そこで人生の不満や不安をぶちまけているということが発覚する。そこで明らかにされるのが弟の兄に対する劣等感であり、それが原因で今の妻や子供との暮らしが本当に幸せなのかという疑念を発生させる。
彼のネット上の日記は、後編にて「悪魔」と呼ばれる連続殺人犯を呼び寄せる遠因となり、犠牲者となる弟が殺される「根拠」となる。悪魔(と自称する犯人)は弟を拉致し、拷問する。そして、弟が人生に不満を抱きながらもそれでも幸せなんだと思い込もうとする思考を、誰もが幸せを追求しなければならない社会によって作られたファシズム(セキュリティシステム)のせいであると論破する。その上で、幸せレースにおける格差(その格差は隠蔽されている)を認め、自分は不幸だと宣言するならば(それは誰もが幸せになろうとする唯一絶対の価値を捨てることに他ならない)命を助けてもかまわないという。
しかし、弟は拷問を受けながらも、「自分は幸せだと断言」。「悪魔」に殺され、死体をバラバラにされることになる。


最も興味深い点は……弟が拷問を受けるこのシーンは、悪魔の手によって兄の元に送られてきたビデオテープで明らかになるのだが(その時には悪魔自身は自爆テロで死亡)、死の危険を前にしてそれでも家族を愛し、自らは幸せだったと断言する弟の姿は感動的ですらある。しかし、この小説が目指しているのはそんな安易なセンチメンタリズムに陥ることではない。なぜならば、弟の宣言は、それを見た兄を救うどころか苦しめてしまうからである。最後のシーン、兄は自殺を決意するが、自殺を後押しする原因は「自分こそが悪魔ではないか」という止むことのない疑念であった。実は、小説中でも真犯人は兄ではないかと読者がとれるような仕掛けが周到に施されている。実際に、兄がはらんでいた狂気は、悪魔のそれと重なる部分があるようにも読める。しかし、例えば二重人格で実際の犯人は兄だったというありがちな「オチ」以上に恐怖を覚えさせるのは、兄自身が悪魔の大演説に少しでも通じ合うところがあり、それが分かってしまった彼を苦しめていたということではないか。

最後に犯罪者に対する「赦し」について語る兄の理論は、人間悪を「遺伝と環境」論に基づいた「幸せのファシズム」に収束させる。犯罪はシステムエラーであり、他者の病気にすぎない、それを防ぐために「幸福」という民主主義があり、幸福であるべしという理論こそが強力な抑止のイデオロギーになる。まさに悪魔の理論と重なって来る。この後、兄は母から弟を殺したのはお前だ、と糾弾される幻を見る。彼が全編を通じて、抱えている自己内矛盾が最終的に、自らの命を絶つという結末へと向かわせてしまうのだ。

この物語は、現代の病理を描き、無差別殺人へ向かわせる人の心理を描くだけでなく、この「幸福のファシズム」の社会に生きる誰もが脱落者となり、犯罪に手を染める危険因子を持っているのではないかという社会構造を描いたともいえるのではないだろうか。

もう一つの物語になっている中学生の少年も、その文脈で回収出来るのかもしれない。

とは言いながら、語れる要素はいくつもあり、解釈もいくらでもあるのだろう。多様な読みを誘発するこの作品は、小説の最大限の可能性を秘めた傑作ということができると思う。


決壊 下巻

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決壊 上巻

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