Coyote No21 特集 柴田元幸 「CITY OF GLASS」新訳

まずは 「CITY OF GLASS」の柴田訳を読めるということに対して、コヨーテ編集者に感謝の意を表したい。
ファンからしてみたら、オースターの作品=柴田訳、という認識は強く、その中でも初期の傑作である 「CITY OF GLASS」が諸々の事情でそうならなかったという事実は、どうにも歯がゆい想いをさせられたものである。

そして、特集中のエピソードを読むに、柴田氏も独自の訳を朗読会にて披露し、作品への想いを持ち続けていることをうかがわせている。その機会を与えた「Coyote」に、雑誌のあるべき姿のようなものを感じる。著者と読者のはかない願いを、時代を超えて、叶えたと言えるだろう。


改めて読んでみると、この物語がいかに周到に、「非―主体」の小説として組み立てられているかが序盤から伝わってくる。主人公クィンは、ミステリー小説の作家として、自らが創造する小説の主人公として、そして探偵オースターとして、様々な同一性・非同一性を抱えて小説内を生きる。そして何より、オースターとはこの小説の作者と同姓同名であり、そこにも周到なメタ性が付与されている。


さらにストーリー自体も、どこまでが真実でどこまでが虚構か、ということも非常にあやしく曖昧に描かれている。いや、むしろ虚構とはなんなのか、何を持って真実と呼べるのか、どこにその担保などがあるのか、ということ自体へも疑問がつきつけられており、真実、の欺瞞を不気味なまでに暴いているのだ。


尾行していた老人のたどった軌跡は意味を持つのか、持たないのか。それはもうクィン自身あるいは読者自身の信じる・信じないにのみ関わっており、それを言ってしまえば、物語の全ての存在理由は危うくなって来るとも言える。


だが、この主体や意味の危うさは、何も小説内に限ったことではない。
正義の名の元に戦争を行う国に生まれたこの小説は、現実世界でも事態はなんら変わらないことを、明白に描き出しているとは言えまいか。何十年とたった今でも、このオースター思想の原点ともいえる傑作は、いまだに力を持って、現実世界の虚偽(いや、それを虚偽と呼ぶことも危ういかもしれない)を暴き出す。


全編を持って、その不可思議で背筋も凍る不条理な世界観を味わうことが出来るのも、まさに柴田訳の面目躍如といえるだろう。この小説を、これほど作者の思想を映し出した形で、味わうことが出来る幸福を今しばらくかみ締めていたい、僕にとって今号はそんな大切な雑誌の一つになった。