島根旅行2日目 〜質素で素敵な世界遺産 石見銀山 編〜

石見銀山周辺のバスルートには、「緑」路線と「赤」路線がある。緑ルートは駐車場と大森という古い街並みをつないでおり、「赤」路線はその大森と銀山観光のハイライト、「龍源寺間歩」とをつないでいる。ちなみに「間歩」とは坑道のことだ。要するにいわゆる石見銀山観光の最大の目的地とは龍源寺間歩であり、そこまでは駐車場から「緑」と「赤」を乗り継いでいかないといけないわけだ。もちろん歩いて向かうという手だってないことはない。山道とはいえ舗装されている5kmそこそこの道だ、健脚家であれば30分かそこらで歩いてしまうだろう。でもあいにく(というべきか)その日は朝からの猛暑にさらされ、立っているだけでも汗が滴り落ちる。どうしてこんなバスルートなんて瑣末な情報を事細かに書いたかというと、これがなかなかシステムがうまく運用されていなかったからだ。


だいたいなんで、駐車場から直接、銀山まで直行できないのか。大森の停留所で僕らは炎天下にさらされながら30分は次の「赤」のバスを待ったと思う。周りのお客さんも、日傘の下でいらいらしているようだった。

たまたま僕らの乗ったバスの運転手は、トークが冴える男だった。廃線間際の路線で、市かどこかから援助を受けながら、細々と運行を続けていたらしい。それがある日を境にこの有り様だ。ブランドを授かるってすごいじゃないか。魔法みたいだ。そりゃあそうだろう。名前だけならアンコールワットマチュピチュと肩を並べたコトになるんだから。
この運転手さんのネタ話に笑わされながら、さっきまで待ってた辛さなんてどこかへ行ってしまった。でも気になるコトといえば、この話術をどこで身につけたのか。一回に1人か2人しか乗せなかったっていうのに。


 それで少し話が戻るのだけれど、このシステム化されていない、不完全なバス路線に対して、僕はすごく肩入れしたい気持ちになったのです。
多分、もっとうまくやる方法はいくらでもあって、そのノウハウやシステムがまだまだ定着していないだけなんだろう。でも、そんなシステマティックに人を運ぶことなんて、どうでもいいじゃないか、と思ってしまう。なぜなら、ここは田舎なのだ。
 前もって言っておくと、ここから話が飛躍します。最近の僕と言ったら「消費社会」「競争社会」毛嫌いなのです。「消費者」の名の元に、地球上の全てを均質化し、主観の心地よさで染め上げ、足りなければ「クレーム」という圧力をかける。そこにバスの本数が少ないとかいう「うまくいかなさ」とか、時刻表どおりに来ないと言う「不慮の出来事」を極力排除しようとする。そうじゃなくて、その想像出来なさ・予測不可能性を楽しまないといけないんじゃないか。まぁバスが来ないくらいで予測不可能性なんていうのもどうかしてるけど。だってここは島根の片田舎ですよ。リッツカールトンじゃないんだ。


まぁでも、かくいう自分も消費都市東京にどっぷり浸かり、その活動の一翼をがっちり担わされているのも隠しようもない事実。こういうのを世間では、矛盾というのか。


街の看護婦が打ち水をしながら、愚痴っていた
「観光客が増えて、ホント迷惑」
物事にはいろんな観方があって、どうにも複雑に出来ている。


それでもやっぱり自然が美しかったりして、「つまり癒しってこういうこと!?」なんて不覚にも思わされたりするのだ。

宍道湖の夕焼け。実際はもっときれいですよ。