『聖家族』古川日出男

聖家族

聖家族

2000枚の超大作は周縁から歴史を問いただす

古川日出男の2000枚にも及ぶ大作。作家10年目の集大成。
ガルシア・マルケス『100年の孤独』を思わせるような長大な血縁の歴史。東北を舞台にしたサーガ。

この「最大最長最高傑作」を持って古川日出男は何を成し得ようとしたのか。


多くの物語が交錯し、語られるべきテーマがいくつも眠っているメガノベルであるのだが、その中で個人的に注目したのは「周縁性」と「多様性」のテーマについて。


舞台は「東北」。
それは古来より日本の中心から見て「東の北」と呼ばれた場所。徳川は征夷大将軍を名乗って日本を支配したのだが、そこには「東北」が都からの距離や実体の不明確さから忌み嫌われ、恐れられた土地だということが証明されている。つまり「征夷」。「征夷大将軍」という言葉が力を持ったという事実にこそ、当時東北がどれだけ人々の中で周縁として恐れられていたかが分かる。

その「周縁」である東北から語られる日本の歴史。


そして、狗拳を扱う「狗塚家」という系譜。
排除され、逃亡を余儀なくされている血筋。
人類にとって異物である「異能の者」から見た歴史。
はっきりとは書かれないが、そこには異能の者への差別・偏見も内包しているはずだ。


さらに「記録」としての歴史を語るのではなく、「記憶」として歴史が語れるということ。それは「口承」という形態をとって。(狗塚らいてうやカナリアの姉妹のよる狗塚家の歴史など)。


つまり中心からしか語られない「歴史」を自分の元へと奪還するために、「記憶」という曖昧性・偶然性を含んだものを語りの装置として機能させ、曖昧で偶然な視点こそが多様性を生み出すことを提示する。


幕末の歴史も新撰組薩長同盟も、東北を主舞台に、カナリアの血縁の記憶として語れるとき新しい意味を帯びる。
そこに豊穣な歴史の多様性が表れる。


『聖家族』は周縁から歴史を語ることによって、原理主義を拒否し、多様性を獲得することに成功する。
それはクレオール文学の理念を日本のど真ん中で再現したとも言えるかもしれない。


意味を追う作業をやめて、狗塚家の語りに素直に耳を傾けることが出来たとき、初めてこの物語に入っていけたような気がした。

そんなことに気付いたラスト。
時間や歴史の重みに命の連鎖が絡まり合って、ずいぶん遠い場所まで連れてきてもらったような気分になり、ある種の高揚感から逃れることが出来なかった。